Naka Time and Space

時間と空間に関連する諸々を書きます

実践の充実をはかる

堀江さんの『多動力』という本を読みました。普段自分が読んでいるような本とは全く系統が異なりますが、最近「実践」ということに興味を持ち始めたので手に取りました。

実践の欠如

自分の生活を眺めてみると「実践」が欠如していることに気がつきました。唯一実践的と呼べそうなのは、日々のランニングのトレーニングくらいです。

自分の中での「実践的」というのは、主体的な経験とでも言い換えることができます。何かを行う際に、受動的に慣性的に行うのではなく、一定の思考を介入させるということです。

この実践が自分の生活にはほとんど見出されません。朝食は決まってオートミールにヨーグルトを混ぜ、冷凍ブルーベリーをトッピングするものだし、夕食はたいてい鍋です。余暇もYouTubeアルゴリズムの波に身を任せるだけです。いずれにおいても何かを考え、行動し、工夫するといった実践性はどこにもありません。

こうした中で、実践しなければ...!という思いが日増しに強くなっていました。そんな時に、いわば実践の達人である堀江さんの本を読んで、少しでもそのエッセンスを吸収できたらと思いました。

本の感想

実践の人というだけあって、一定量の物語や人文的な素材に触れた人に現れるような謙虚さ、他者の価値観への想像力といったものはほとんど感じられませんでしたが、自分にとって新鮮な内容であることは間違いないです。

本を読んで、エッセンスみたいなものを朧げながら掴めた気がします。

実践においては、自分の興味にしたがって行動し、耽溺し、そのことについてよく考えることが大切だということです。堀江さんは、様々なビジネスを手がけておられますが、そのどれもにおいて好奇心によって導かれ、徹底的に考えています。だからこそ、本当に多くのことをしていく中でどれもが自身の血肉となっていくのでしょう。

また、本には直接的には記載されていなかったものの、きっと大切なポイントであろうということは、実践を通じて構築される人的ネットワークです。人とのつながりを道具的に価値あるものとみなすことはしたくありませんが、やはり、人的ネットワークから得られる知識は深いものがあるし、効率的に吸収されうるだろうという考えが自分の中にあります。実際の経験からいっても、確かにそうであると感じています。

堀江さんのように広範な分野で実践を重ねていれば、それだけ多様な人的ネットワークが形成されることでしょう。

生活にどう生かすか

以上のことを踏まえると、新しいことに挑戦すること、どんなことも経験だと考えることが大切になると思います。

新しいことに挑戦すれば必然的に考えざるをえません。先日早速実践の一環として陶芸体験にいったのですが、ろくろを回して粘土を整形するに際し、きれいな仕上がりを目指して、水の量を調整したり、粘土の厚みを調節する手のリズムを変化させたりといろんなことを考え試行する必要がありました。

また、日常生活のどんなことも捉え方次第で深い経験とすることができるはずです。先週ニンジンを切っている際に、誤って指を切ってしまいました。思いの外大量に出血して慌てましたが、なぜ指から大量に血が出てくるのか、指を切った際の適切な行動といったことを学ぶことができました。

このように、経験に自分の思考を介入させることで、その経験は心に残る深いものになると思います。

日記を捨ててみて

先日、昔つけていた日記を捨てました。たまに見返していて、懐かしいなと思うこともあったのですが、同時にどことなく恥ずかしさを感じたりやらかした経験がフラッシュバックして、見返した後に言いようのない疲れを感じていました。

さらに自分は定期的に嫌な過去を思い出して嘆くことが多いタイプの人間で、しかも黒歴史を作ってしまいがちでもあるので、日記を見返すたびに嘆きの材料がどんどん復活してしまうという状況でした。

とはいえ、今の自分からするとすごくフレッシュな気持ちを率直に語っている部分もあり、日記を読み返すことで初心を思い出すことができました。なので、なかなか捨てるところまでは踏み切れませんでした。

そうした中、先日思い切って日記断捨離を行いました。以下、これに関連して考えていることをつらつらと書いていきます。

過去と自分の一部との別れ

日記を読むと「そういえばこんなことあったなー」と思うことが多いです。逆に言えばそれらは、日記を読まなければ基本的に思い出すことはなかったということです。さらには、日記を読み返しても「こんなことあったけ?」と完全に忘却されている事象にも遭遇することがあります。それは、いわば日記のみに存在する過去と言ってもよいと思います。日記を捨てる際には、この後者との別れという点で言いようのない寂しさを感じました。日記は自分が自分のことを記したもので、自分の一部とも言えるものです。自分の中では忘却されており、日記の中にのみ存在した過去の自分はどこか貴重さを感じます。なので、自分にとって日記を捨てることは自分の何か大切な一部を捨て去ることに等しい感覚を覚えました。

今を生きる

上のように、過去の自分をまるごと大切にしていくような姿勢は、あくまで一つの姿勢でしかありません。過去の中には、決して思い出したくないような過去もたくさんあります。とりわけ黒歴史製造機とも言える自分にはそんな過去は盛りだくさんです。黒歴史は時折フラッシュバックし、その度に暗鬱な気持ちになります。仮に、幸福を追求することを自身の生の第一義とした場合に、黒歴史のフラッシュバックはマイナスでしかありません。よって、自分の性格、気質を踏まえると、過去の記憶に対しては消去に重きを置く姿勢をとった方が良いかなと思っています。具体的には、日記や写真などの記憶の外部化を白歴史に限定するということです。

日記や写真を消去しても、本当に良かった記憶や、教訓となる事象は、否が応でも覚えていることだろうと思います。とりわけ自分のようなネガティブな自分が顔を覗かせがちな人にとっては「今を生きる」が幸福のための一つのキーワードになるのかもしれません。

アイデンティティ

上で述べたことと関連するのですが、過去を取り去った際の自分というものを考えると不思議な気持ちになります。そのような自分は、「自分」と呼んで良いものなのかというと微妙なところだなと思います。黒歴史フラッシュバックは嫌すぎるけれど、黒歴史を製造してしまうのが「自分」ではないのかと。主観としてフラッシュバックは辛すぎるけど、それはあくまで主観であって、第三者的に見れば、黒歴史を抱え込み、そんな嫌なものもたくさん詰まった過去の上に積み上げられていく一人の人間の生の方がおもしろいんじゃないかと思ったりもします。

以上のことをさらに考えていくとかなり話が大きくなるので、いつかどこかで記事にできたらと思います。

本屋で時間術本を眺めて

時間のクオリティを高めたいと思い、本屋に行って時間術に関連する本をパラパラめくってみました。するとやはり、共通して説かれてることや通底する考えみたいなものがあったので、自分の経験や考えと合わせてメモ代わりにざっと書いていこうと思います。具体的なメソッドのたいていは、多くの方がもはや当たり前に知っていることではないかという気がします。

自分の時間観についてはこちら↓

nakanttimespace.hatenablog.com

フレーム(可処分時間を増やすか、クオリティを上げる)

時間術の本を眺めていると、様々なメソッドがあるなと思いましたが、同時にどれもが2つの方向性のいずれか、ないしは、両方を目指したものであるなとも思いました。それは「可処分時間を増やす」か「時間の過ごし方のクオリティを上げるか」です。

これは、よく考えれば当たり前のことで、基本的には自由に使える時間はたくさんあった方が良いですし、同じ時間を過ごすにしても辛いことよりも楽しいことをしたいというのが自然だろうと思います。

この2つの方向性さえ意識できていれば、下記のような時間術本で述べられている具体的な方法を教えられなくても、自分の生活を振り返るだけで改善していく手立てを発見していくことができるのではないかと思います。

仕事系

シングルタスク

マルチタスク状態だと、集中力を一つの事柄に注ぐことができず、結局並行して実施しているタスクのどれもが中途半端になってしまいます。シングルタスク状態であれば、集中力を一つの事柄に注ぐことができ、その分集中力の質も高まって生産性が向上します。

あらかじめ段取りをつけておく

とりわけ大きなタスクに取りかかろうとする際に、何も考えずに手をつけてしまうと、あらぬ方向に進んでしまったり、ステップごとに都度次のステップを考えなければならず生産性が落ちかねません。ですので、タスクに取りかかる前に、あらかじめ必要なステップと必要な労力、時間を洗い出しておき段取りをつけておくことが大切になると思います。この事前準備では考える力が求められますが、一旦段取りをつけてタスクを開始してしまえば、あとはほとんど単純作業にしてしまえるのが良いところです。

自動化

人手を介さず、機械的に処理できるものは自動化をしてしまえば、それまでそのタスクにかけていた時間が丸ごと浮いてしまい非常に効果的なので積極的に意識したいです。

生活系

睡眠

やはり睡眠の質を向上させることは、健康や集中力という観点から大切です。

運動

睡眠と同様の観点から適度な運動が大切です。

食事

睡眠と同様の観点から栄養バランスのとれた食事を適量摂るのが大切です。

全般

もやもやは書き出す

悩んでいることやもやもやすることがある場合は、紙などに書き出してしまうと思考が整理されたり、悩みやもやもやが意外と小さかったものであることに気づくことができます。また、頭の中に悩みやもやもやがある状態だと、思考がそれらに持っていかれマルチタスク状態になりかねないので、タスクを頭の外へ出すという意味でも書き出しは有効です。

適度に休む

タスクをこなしてばかりでは脳が疲労してきてしまうので、リラックスタイムを設けることが大切です。昼寝や散歩など、あまり脳を使わないアクティビティが良いかと思います。

藍染めの中の時間

昨日NHKで放送されていた『趣味どきっ!染めものがたり』では藍染めが紹介されており、時間という観点から非常に興味深く視聴しました。

内容

場所は茨城県つくば市。今回の主人公である丹羽さんのご自宅からは筑波山がよく見えます。

丹羽さんは美大時代に織物や染色を学ばれ、とりわけ藍染めに魅了されたといいます。

受け継がれる藍甕

結婚を機につくばに引っ越した丹羽さんは、かつてその土地で使われていた藍甕を譲り受けます。ひびが入ったり欠けたりした部分はすべて自分で補修をしたそうです。その土地では、江戸時代から昭和にかけて藍染めが行われており、それが丹羽さんの手により時間を超えて受け継がれたことになります。

藍染めに込められた時間

番組の中では、丹羽さんの自宅の工房で藍染めの工程が紹介されました。

藍の原料はタデアイという植物で、葉の部分を乾燥、発酵させると青の色素を含んだ「すくも」が生まれます。このすくもに、木材の灰を水に溶かした際の上澄液と糖分を加えることで、すくもはさらに発酵します。この発酵で青の色素が水に溶け出し、染液の表面には「藍の華」と呼ばれる泡が浮かぶようになります。

染液の管理は五感を頼りに行われます。温度、見た目、匂いからその都度必要なものを見極めます。

実際に布を染めていく工程では、藍は空気に触れると色が変わり布に空気が残っているとムラになるため、素手で感覚を確かめながら空気を搾り出します。1、2回目の染色では、布の色は黄色や緑色ですが、回数を重ねることで深い青になっていきます。この状態の布を水にさらすとパッと鮮やかな青に変化します。番組ではこの様子が映されていました。

このように藍染にはかなりの時間がかかり、その積み重ねられた時間があの美しい青色を作っているのです。

感想

つくばの自然

まず、場所が茨城県つくば市というところが良かったです(エンディングの風景が素晴らしすぎました)。筑波山周辺の、「真っ平な田園風景の中にそびえる筑波山」という風景は自分もとても好きです。全くの自然ではなく、どこか人の匂いがする自然、温かさを感じる自然です(これについてはまた記事にする予定です)。

藍染

これまでは漠然と藍色ってきれいだなと思っていただけでしたが、そのプロセスがこれほど時間との関わりがあるものだとは知りませんでした。

動画を倍速で見るようには染色を早送りすることはできず、自然に流れる時間の中に身を置いて静かに藍と対話をする必要があるのだなと思いました。

今回の主人公の丹羽さんは、その生活のあり方からまさに「自然の時間の流れを生きる人」という感じがすごく伝わってきました。藍との生活は「精神が安らぐ」とおっしゃっていたことも印象的でした。初回の記事で述べた自分の時間観からすると非常に興味深かったです。

nakanttimespace.hatenablog.com

新たな時間の生き方を知ることができて有意義な番組でした。そして藍染めの物がしっかり欲しくなりました。

藍染めについて詳細に紹介されています

story.nakagawa-masashichi.jp

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%83%8F%E9%8E%AE%E8%97%8D%E6%9F%93%E5%9D%8A-_panoramio.jpg

言葉の形作る空間

今回は、言葉と空間というテーマです。

先日NHKでやっていた『言葉にできない、そんな夜。』という番組の感想とあわせて普段言葉と空間について考えていることを綴っていきます。

言葉と空間

自身が外的・内的に発する言葉は独特の空間を形作る、というのが自分の考えです。それは、他者とのコミュニケーションや自分の思いとの関連においてです。

イメージとしては次のようなものを思い描いています。

この図でどういうことを考えているかというと、まず、自身の思いは言葉によって表現しきれるとは限りません。「何となくもやもやするなあ」というのがそんな状態の代表例です。さらに他者と会話をしている際にも、自分の言いたいことをを100%伝えられた!と思っても、半分しか伝わってなかった、みたいなこともよくあったりします。

何かを表現したいと感じたときに言葉だけでは足りないという状況が出てくるはずで、そうしたときに絵画や彫刻などの芸術が出てくるのかなと思います。

番組内容

各回いくつかのテーマが決まっているようです。番組の構成としては、テーマが提示され、テーマに関わる小説や歌詞の一節が引かれたり、スタジオの出演者がテーマに関する一句をよんだりするものでした。出演者は歌手やアイドル、作家などです。

お題は次の通りです。

  • 酒を飲んではしゃぎすぎたことを思い出した時
  • セットしたのに髪型がくずれた時
  • 大丈夫じゃないのに大丈夫と言ってしまった

番組の感想

言葉にできないことを何とか言葉にしようとする、という番組のテーマが非常に良かったです。ただ、出演者の中で作家の方が”先生”のような立ち位置で進行されていた点が気になったと言えば気になりました。もちろん作家の方は、言葉を他者と共有するプロフェッショナルではありますが、その他の方であってもそれぞれ自分独自の言葉の空間をもっているはずで、とりわけ本番組のテーマからすれば、それらが平等にリスペクトされるべきだと思ったからです。

言葉の空間のギャップのありがたみ

冒頭で示した言葉に関する空間の図式からすると「大丈夫じゃないのに大丈夫と言ってしまった」というテーマは興味深かったです。

これは、言葉による表現が相手への思いやりの気持ちに時間的に追いつかないケースですね。コミュニケーションの不一致、もやもやの例として挙げられていましたが、個人的には素敵なことだと思います。この「言ってしまった」は、相手を思いやってる気持ちが存在することを証明していて、言葉が字面の意味とは別の意味をもっていることになります。

冒頭で示した図式における表現したい思いや言葉によって形成される空間が異なることで生まれる意味は、ときに人間的な温かみの存在を教えてくれるのだなと思わされました。

改革と時間

時間を超えて過去からは様々なことを学ぶことができる、ということで本ブログでは歴史に関連することも記事にしています。

今回は、昨日の『100分de名著』が題材です。昨日からはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』がテーマになっています。

第1回の内容

まず、ショック・ドクトリンは、大災害やテロなどの社会に大きなショックがもたらされ、一度白紙状態になった際に、一気に資本主義的な介入のもと改革が進められることを指します。

このショック→改革の一連の流れの理論的後ろ盾となったのがフリードマンでした。フリードマンの理論では以下の3つが説かれます。

  1. 規制緩和
  2. 民営化
  3. 社会保障費削減

フリードマン理論は、いくつかの実例を通して社会的に実験されることとなりました。

本放送では例として、チリのクーデターとサッチャー政権下の民営化を取り上げています。

チリのクーデター

1970年の選挙では、社会主義を標榜するアジェンデが当選し、自由選挙史上初の社会主義政権が誕生しました。アジェンデは天然資源やインフラの国有化を進めていきました。

ここで危機感をもったのがアメリカ企業です。当時アメリカ企業は、チリの銅山や電話通信企業のおよそ7割の株式を所有していました。利益が失われることをおそれた彼らは、当時の大統領ニクソンにチリへの働きかけを要請します。ニクソンは、チリからの銅の輸入をストップ、また、CIA工作員をチリ軍部に送り込み、反アジェンデ派に軍を掌握させていきました。

1973年9月にピノチェト将軍がクーデターを行い、独裁政権を打ち立てます。

このピノチェト将軍のもとにブレーンとして送り込まれたのがフリードマンの愛弟子である「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる人たちです。彼らは、シカゴ大学に呼び集められ、フリードマンのもとで学んだチリのエリート学生です。

こうしたブレーンの提案した経済改革のもとで、価格統制の撤廃、公営サービスの民営化が進められ、富裕層の収入は83%増大し「チリの奇跡」と言われました。しかし、そのもとでは安い輸入品による国内市場の占拠、国内企業の市場競争での敗北による失業率の上昇が起こっており、貧富の差が拡大していました。

サッチャー政権下での民営化

民主主義国家のイギリスでは、政策を推進するうえでは高いレベルの合意が必要となるため、民営化はすぐには行われませんでした。

契機としては外と内の2つの”戦い”があります。まず、1982年4月のフォークランド紛争です。ここでイギリスはアルゼンチン軍に勝利し、サッチャーの支持率は急速に拡大します。さらに、国内では炭鉱労働者によるストライキが起こり、サッチャーは炭鉱労組との対決を内なる戦いと位置付けます。ここでもサッチャーは勝利します。

2つの戦いに勝利したサッチャーは、電話、ガス、航空会社、鉄鋼など国営事業の民営化を行います。ここにおいて、政府と大企業が密接に結びつき、経済政策は企業側に有利に進められることとなります。こうした国家をナオミ・クラインは「コーポラティズム国家」と呼び、次のような特徴を指摘しました。

  • 膨大な公共資産の民間移転
  • 二極格差の拡大
  • 安全保障への際限なき支出を正当化する好戦的ナショナリズム

改革の時間軸

今回の内容は、時間という観点からみるととても興味深かったです(個人的には以前記事にした持統天皇の長期間にわたる殯が頭に浮かびました)。

nakanttimespace.hatenablog.com

ショック・ドクトリンは、社会のショック状態において民衆の判断力が正常に機能しない間に、一気に改革を進めてしまうものでした。改革に対する民衆のジャッジの時間がないため、早急に改革を実施でき、そのシナリオは改革推進者の描いたものがそのまま適用されることとなります。推進者は、何らかの効果は見込んでいるはずなので、社会のどこかのポジションの人はその便益を享受することが可能です。しかし、その改革が社会全体を等しく幸せにしてくれるかというとそうではなく、そこに歪みが出てくることになります。

本来の民主主義であれば、基本的にある政策が決定される際には国民のジャッジが何らかの仕方で挟まってくることが想定されており、決定までには時間を要します。その分、社会のどこかのポジションの人が圧倒的な置いてけぼりをくらうことはそうそうありません。時間をかければそれだけ民意が反映されるわけではありませんが、時間があれば民意が入り込む余地は少なからず生まれるだろうと思います。

正直、改革の推進のされ方に明確な解があるわけではないと思いますが、改革がどういった時間軸で決定・推進されるのかを一つの視点としてもっておくと良いのではないかと考えました。少なくとも、少数者によって早急に改革が決定されれば(それが良くても悪くても)民衆による議論の余地がないことになりますからね。

フィクションと空間

今回はフィクションと空間というテーマで考えていることを書いていこうと思います。

フィクションがもう一つの居場所

自分にとってフィクションは、心の空間の拡張、現実以外のもう一つの居場所です。現実世界で悩んだり、息苦しさを感じた際に、マンガを読んだり、アニメを見たり、小説を読むことでフィクションの世界に浸り、その瞬間は現実世界のことを忘れることができます。

こうした心の逃避先が存在することはレジリエンスの向上につながります。

これまで、浪人期や就活などで苦しい時期を経験してきましたが、そのたびにフィクションの存在が自分の心に安定をもたらしてくれていたように思います。

浪人期には、『こち亀』、村上春樹さんの『海辺のカフカ』を読んでいました。『こち亀』は、両津さんの破天荒な生き様が浪人期に受験勉強ばかりの毎日で息苦しさを感じていた自身の心の解放の代替となってくれていました。『海辺のカフカ』は、一人で強く生きることを決意した主人公の物語が、浪人期予備校で誰とも会話をせず、そのことでわずかばかり不安を感じていた自分に勇気を与えてくれました。

就活期は、とにかくアニメ、ドラマ、マンガ、小説といった様々な物語を渡り歩きました。そのときは、コンテンツそれ自体から影響を受けることよりも、「物語の世界に浸る」経験それ自体が、確かなリアリティをもつものであると考えるようになっていました。就活はあまりうまくいかなくて、悩んだときもありましたが、自分が生きる現実以外の居場所としてフィクションの世界がリアルになっていたことで、悩みを相対化することができるようになりました。

抽象化

上では、様々なコンテンツによって構成されるフィクションの世界がもう一つの居場所、空間を与えてくれるのではないかということを述べました。

大学時代の途中あたりからは、上のようにいわば空間を仮想的に拡張するという考え方を抽象化し、ノンフィクションにも適用できるのではないかと思うようになりました。

どういうことかといいますと、自分は次のようなことを考えています。

人間は歴史の中で、哲学、物理学、社会学等様々な学問分野を発達させてきました。私たちは、そうした学問分野から様々なことを学ぶことができます。何かを学んだ際には、この世界に関する新たな視点を獲得することができます。哲学において、物事を相対化することや、基礎付けることなど抽象的な物の考え方を身につけたり、物理学を学ぶことで目に見える世界が数式で記述できることを知ったり、社会学では、マクロやミクロな視点からの観察によって人間の新たな一面を発見できたりします。

こうして世界に関する認識をアップデートすることで、昨日まで生きていた現実と今日生きている現実が全く違った見え方をすることや、同じ現実の見え方がより豊かになったりすることがあります。自分は、こうして現実世界の見方を変化させていくこともある意味では仮想的な空間の拡張と言えるのではないかなと考えています。

空間の拡張が余裕につながる

自分が生きている世界のみが絶対的なものだと思ってしまうと、そこでうまくいかないことがあった場合、どこにも行き場がなく辛くなってしまいます。

しかし、上のように仮想的に世界を広げることができれば、そこに行くことで辛さから逃れることができます。

こうしてオプションを複数持っておくことは、心の余裕につながり、翻ってまさに身体で生きている世界における様々な局面の振る舞いも違ったものになってくるはずです。

現代では、幸い容易に様々なコンテンツを享受することができるので、物語や学ぶことが不足することはなかなかなさそうです。これからも物語の世界に浸ったり、多くのことを学ぶことで心的空間を構築していき余裕のある生を送っていきたいです。