Naka Time and Space

時間と空間に関連する諸々を書きます

改革と時間

時間を超えて過去からは様々なことを学ぶことができる、ということで本ブログでは歴史に関連することも記事にしています。

今回は、昨日の『100分de名著』が題材です。昨日からはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』がテーマになっています。

第1回の内容

まず、ショック・ドクトリンは、大災害やテロなどの社会に大きなショックがもたらされ、一度白紙状態になった際に、一気に資本主義的な介入のもと改革が進められることを指します。

このショック→改革の一連の流れの理論的後ろ盾となったのがフリードマンでした。フリードマンの理論では以下の3つが説かれます。

  1. 規制緩和
  2. 民営化
  3. 社会保障費削減

フリードマン理論は、いくつかの実例を通して社会的に実験されることとなりました。

本放送では例として、チリのクーデターとサッチャー政権下の民営化を取り上げています。

チリのクーデター

1970年の選挙では、社会主義を標榜するアジェンデが当選し、自由選挙史上初の社会主義政権が誕生しました。アジェンデは天然資源やインフラの国有化を進めていきました。

ここで危機感をもったのがアメリカ企業です。当時アメリカ企業は、チリの銅山や電話通信企業のおよそ7割の株式を所有していました。利益が失われることをおそれた彼らは、当時の大統領ニクソンにチリへの働きかけを要請します。ニクソンは、チリからの銅の輸入をストップ、また、CIA工作員をチリ軍部に送り込み、反アジェンデ派に軍を掌握させていきました。

1973年9月にピノチェト将軍がクーデターを行い、独裁政権を打ち立てます。

このピノチェト将軍のもとにブレーンとして送り込まれたのがフリードマンの愛弟子である「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる人たちです。彼らは、シカゴ大学に呼び集められ、フリードマンのもとで学んだチリのエリート学生です。

こうしたブレーンの提案した経済改革のもとで、価格統制の撤廃、公営サービスの民営化が進められ、富裕層の収入は83%増大し「チリの奇跡」と言われました。しかし、そのもとでは安い輸入品による国内市場の占拠、国内企業の市場競争での敗北による失業率の上昇が起こっており、貧富の差が拡大していました。

サッチャー政権下での民営化

民主主義国家のイギリスでは、政策を推進するうえでは高いレベルの合意が必要となるため、民営化はすぐには行われませんでした。

契機としては外と内の2つの”戦い”があります。まず、1982年4月のフォークランド紛争です。ここでイギリスはアルゼンチン軍に勝利し、サッチャーの支持率は急速に拡大します。さらに、国内では炭鉱労働者によるストライキが起こり、サッチャーは炭鉱労組との対決を内なる戦いと位置付けます。ここでもサッチャーは勝利します。

2つの戦いに勝利したサッチャーは、電話、ガス、航空会社、鉄鋼など国営事業の民営化を行います。ここにおいて、政府と大企業が密接に結びつき、経済政策は企業側に有利に進められることとなります。こうした国家をナオミ・クラインは「コーポラティズム国家」と呼び、次のような特徴を指摘しました。

  • 膨大な公共資産の民間移転
  • 二極格差の拡大
  • 安全保障への際限なき支出を正当化する好戦的ナショナリズム

改革の時間軸

今回の内容は、時間という観点からみるととても興味深かったです(個人的には以前記事にした持統天皇の長期間にわたる殯が頭に浮かびました)。

nakanttimespace.hatenablog.com

ショック・ドクトリンは、社会のショック状態において民衆の判断力が正常に機能しない間に、一気に改革を進めてしまうものでした。改革に対する民衆のジャッジの時間がないため、早急に改革を実施でき、そのシナリオは改革推進者の描いたものがそのまま適用されることとなります。推進者は、何らかの効果は見込んでいるはずなので、社会のどこかのポジションの人はその便益を享受することが可能です。しかし、その改革が社会全体を等しく幸せにしてくれるかというとそうではなく、そこに歪みが出てくることになります。

本来の民主主義であれば、基本的にある政策が決定される際には国民のジャッジが何らかの仕方で挟まってくることが想定されており、決定までには時間を要します。その分、社会のどこかのポジションの人が圧倒的な置いてけぼりをくらうことはそうそうありません。時間をかければそれだけ民意が反映されるわけではありませんが、時間があれば民意が入り込む余地は少なからず生まれるだろうと思います。

正直、改革の推進のされ方に明確な解があるわけではないと思いますが、改革がどういった時間軸で決定・推進されるのかを一つの視点としてもっておくと良いのではないかと考えました。少なくとも、少数者によって早急に改革が決定されれば(それが良くても悪くても)民衆による議論の余地がないことになりますからね。