Naka Time and Space

時間と空間に関連する諸々を書きます

日記を捨ててみて

先日、昔つけていた日記を捨てました。たまに見返していて、懐かしいなと思うこともあったのですが、同時にどことなく恥ずかしさを感じたりやらかした経験がフラッシュバックして、見返した後に言いようのない疲れを感じていました。

さらに自分は定期的に嫌な過去を思い出して嘆くことが多いタイプの人間で、しかも黒歴史を作ってしまいがちでもあるので、日記を見返すたびに嘆きの材料がどんどん復活してしまうという状況でした。

とはいえ、今の自分からするとすごくフレッシュな気持ちを率直に語っている部分もあり、日記を読み返すことで初心を思い出すことができました。なので、なかなか捨てるところまでは踏み切れませんでした。

そうした中、先日思い切って日記断捨離を行いました。以下、これに関連して考えていることをつらつらと書いていきます。

過去と自分の一部との別れ

日記を読むと「そういえばこんなことあったなー」と思うことが多いです。逆に言えばそれらは、日記を読まなければ基本的に思い出すことはなかったということです。さらには、日記を読み返しても「こんなことあったけ?」と完全に忘却されている事象にも遭遇することがあります。それは、いわば日記のみに存在する過去と言ってもよいと思います。日記を捨てる際には、この後者との別れという点で言いようのない寂しさを感じました。日記は自分が自分のことを記したもので、自分の一部とも言えるものです。自分の中では忘却されており、日記の中にのみ存在した過去の自分はどこか貴重さを感じます。なので、自分にとって日記を捨てることは自分の何か大切な一部を捨て去ることに等しい感覚を覚えました。

今を生きる

上のように、過去の自分をまるごと大切にしていくような姿勢は、あくまで一つの姿勢でしかありません。過去の中には、決して思い出したくないような過去もたくさんあります。とりわけ黒歴史製造機とも言える自分にはそんな過去は盛りだくさんです。黒歴史は時折フラッシュバックし、その度に暗鬱な気持ちになります。仮に、幸福を追求することを自身の生の第一義とした場合に、黒歴史のフラッシュバックはマイナスでしかありません。よって、自分の性格、気質を踏まえると、過去の記憶に対しては消去に重きを置く姿勢をとった方が良いかなと思っています。具体的には、日記や写真などの記憶の外部化を白歴史に限定するということです。

日記や写真を消去しても、本当に良かった記憶や、教訓となる事象は、否が応でも覚えていることだろうと思います。とりわけ自分のようなネガティブな自分が顔を覗かせがちな人にとっては「今を生きる」が幸福のための一つのキーワードになるのかもしれません。

アイデンティティ

上で述べたことと関連するのですが、過去を取り去った際の自分というものを考えると不思議な気持ちになります。そのような自分は、「自分」と呼んで良いものなのかというと微妙なところだなと思います。黒歴史フラッシュバックは嫌すぎるけれど、黒歴史を製造してしまうのが「自分」ではないのかと。主観としてフラッシュバックは辛すぎるけど、それはあくまで主観であって、第三者的に見れば、黒歴史を抱え込み、そんな嫌なものもたくさん詰まった過去の上に積み上げられていく一人の人間の生の方がおもしろいんじゃないかと思ったりもします。

以上のことをさらに考えていくとかなり話が大きくなるので、いつかどこかで記事にできたらと思います。